「なんでだっけ?」
この状況はどういうことだ。さっきまで親切にもてなしてくれていた筈だ。
当然とも言うべく遭難した一向。助けを求めた船はどうやら大きな商船で、
そこでコルトンという責任者のような人物に掛け合った所、達の境遇に同情してくれたのだ。
念願の休息が手に入り、ほっと、肩の荷を下ろした……ところまでは確かだ。
なのに。
商船が思ったより広い。見た目からして大きな船だと思っていたが想像以上だ。
目印にしていたつもりの扉と同じものがあちこちにある上に、通路自体もなんでこんなに迷路のように入り組んだ造りなのだろう。
おかげで自分の方向感覚をうっかり何処かに落としてきてしまったみたいだ、と項垂れてから数刻は経つ。
「ここだっけ。」
ここも違う。
あてがわれた部屋を探して、それらしき部屋を覗いたり、はたまた開けたりと繰り返すこと数十回。
端からみたらかなりの確率で不審者に違いない。それでも今まで咎められなかったのは悪運の強さからなのか。
そうこうする間に、目的の扉がどんな扉だったのかさえ曖昧になってきた。
どっちの方角からきたのかさえ曖昧。
部屋を探す前に落としてきた方向感覚をどうにかしないといけないかもしれない。
だけど非情に残念なのは、の大事な方向感覚はこの船内で落としたのではないのかもしれない、という事実。
世間ではそれを『方向音痴』と呼ぶ。
本人は認めなくとも。

は多いに焦っていた。
理由は一つしかない。
一人で部屋から出る際に、絶対に大丈夫!と不安がる達に大口を叩いて出てきた手前、
捜索に出られる前に、道に迷った事実さえなかったふりをして、何食わぬ顔で戻りたかったのだ。
これでは信用がガタ落ちだ。元から信用があったのかどうかは置いておくとして。
つまり、自分の保身の為であるのだが。
「トイレに行くのについてきてもらうのも」
健全な女の子であるならばご遠慮願いたいと思うのは当然だ。
まさかそれ位で迷うわけがない、と舐めてかかったのも問題かもしれないけど。
「ああああ…!!!早く戻らなきゃ!!」
あの青い瞳で涼しい顔して何を言われるか想像したくもない。
頭を抱えてうずくまりたい衝動に駆られるが、そんなことをしている場合じゃない。踵を返したその時。
「そこで何をしている。」
やっと巡り会えた彷徨いはじめて最初の人間。助けを求めようと振り返る。
少し疑問に思ったのはその声が威圧的であったこと。
もしかしたら――。それは少し遅すぎたかもしれない。
勢いよく振り返った瞬間、振り返ったそのままの状態で固まった。













programma3. deriva 1 - 漂流 -













振り返った先にいたのは、先程甲板にコルトンと一緒にいた人物。
端正で厳格そうな風貌もさることながら存在感だけで周囲を萎縮させてしまう
圧倒的な空気にコルトンも頭が上がらない様子で彼の主人であるだろうと予測していた。
つまりこの商船で最も権力を持っている人物。
視線が合っただけで金縛りに捕らわれたように、身動きのとれない鋭い眼光、
常に張りつめられた空気に精神が一瞬にして持っていかれてしまいそうな緊張感に息が詰まる。
グレン団長とは全く違った空気で場を支配する。
存在だけでこれ程までに人に畏怖の念を抱かせる人物を今まで見たことがない。
その彼が自分達を歓迎していない事くらい、押しつぶされそうなこの威圧感だけでも充分に理解できる。
快く船内に招き入れてはくれたものの、行動は制限され、影では監視までされている。
その監視の目をかいくぐって迷子になっている自分もなかなかやるな、なんて思ったけど
このピンチを乗り越えられるのならば誰か見つけて欲しいと切に願いたい。
一介の商船ならば、たった数人のよそ者にここまで神経を尖らせることはない。
これでは歓迎ではなくて監禁だ。
は直感で感じていた。この船は只の商船ではないことを。
だから尚更侵入者や、のような思わぬ部外者の乱入にピリピリとしているのだ。
そして目の前の人物、整った容姿から冷酷ささえ感じさせ、瞳が氷のように冷えきり刃物の如く鋭く、
そんな瞳にぶつかっただけで、やましいことがないはずなのに、背筋を冷たいものが伝った。
ただ者である筈がない。彼の纏う絶対的なオーラが一瞬での体の自由を奪った。
「あ、」
緊張のせいか心臓を鷲掴みにされたような感覚に陥る。言葉を発しようにも上手く舌が回らない。
まるで金縛りにあったかのように視線だけが男から外す事が出来ないでいた。
さっき甲板で会ったときはここまでではなかったのに、この押しつぶされそうなプレッシャーはどういうことか。
頭の中で、しきりに警告の鐘が鳴る。
「お前、何者だ?」
と男が一歩踏み出す。静かな船内に男の足音だけが響き、は、と正気に戻ったは一歩後ろに下がった。
「さっき、海に漂流していたのを助けて貰ったもので」
すんなり言葉が出てきたことに驚きながら、それでも近づいてくる男から逃げるようにまた一歩、と後ろに下がる。
未だ警告は鳴り響いている。
「何者だ?」
彼はの言葉が理解できていないのだろうか、尚も問いかけてくることに疑問を感じる。
確実に一歩ずつ距離を詰めてくる男とは対照的にの背には冷たい壁の感触が伝わり、
ついに退路を断たれてしまうと、あと一歩の所で
「問いに答えろ」
言って手を伸ばす。この状況はあの時、タルの時と似ている…不謹慎にもそんな事を思った。
「っ!!」
我に返ったときは、顎を掴まれていて、無理矢理顔を男の方に向かされた。男の整った顔が至近距離にある。
あの時と異なるのは、壊れるんじゃないかというほどバクバクとなる心臓の音が恐怖と困惑で凍り付きそうな事。
息をすることを忘れてしまいそう、否、息をすることを許されないような、
かち合う視線に、男の瞳に、驚愕に固まる自分の滑稽な表情が写っている。
「お前は何者だ?」
息が詰まる。
その問いに答える術を持たない。

「お前は何処か他の奴と違っている」

違和感は無くなるばかりか増す一方だ。
「何故私の前に現れた?お前の目的はなんだ?」
この男は何か勘違いをしているのではないか?ここには海を漂流中に偶々偶然拾われただけなのだ。
目的など問われても答えようがない。
否、と口を開きかけたところで、喉からは荒い息が零れるばかりで、
まるで話すことを忘れてしまったように頭が真っ白になった。
警告が告げる。
この男から離れろ、と。近づいてはならない、と。
掴まれたところからじわじわと殺される。

「まあいい」

男の顔に微かに笑みが浮かんだ気がした。
妖艶で冷ややかな笑みがを射抜く。

「お前が何者であれ、私の障害になるようであれば排除するまでだ。」

そう言って、問いに答えることのないに痺れを切らしたのか、
興味の対象を無くしたと視線が外されると同時にぞんざいに手が離れていき、
解放されたは息つく間もなく、その言葉に全身が凍り付く。
ゆめゆめ忘れるな、俺は言葉を違えない。お前が俺に牙を剥くのであれば――
男はを一瞥した後、踵を返した。







男が去ると、今までの緊張の糸が一気に切れ、ズルズルとその場にへたり込んだ。

「何、いまの……?」

そっと顎に手をやる。未だ掴まれてた感触が残っている。
そこからじわじわと不穏な気持ちが広がっていく。
「そんなの私が知りたい」
自分が何者かなんて、こっちが教えて欲しいくらいだ。
記憶がない今一番触れられたくないこと――
見事に抉りだされてしまった。
気付かないフリをしてきたのに、あんな見ず知らずの男に心を掻き回されるなんて癪だ。

それにしても質問しておきながら、の答えを待つ暇もなく勝っ手に喋って勝っ手に去っていった男に腹が立った。
最初から最後までを見下すような態度が気に入らない。
「えらそうに」
いや実際偉い立場なのだけれど。何も言い返せなかった自分にも腹が立った。
そして今思えばあの無駄に整った容貌も嫌味以外の何者でもない。
これは完璧な逆恨みなのだけれど。

「あ、道、」

聞くの忘れた。










ようやく元の部屋に戻って来て、やや緊張気味に扉を開けると、そこには居る筈の人間もネコも誰も居なかった。
出てくる時に座っていた筈の椅子も、まさか隠れているのではと一応念のため覗いてみたクローゼットの中にも。
もしかしてもう探しに出ちゃった後なのだろうか…、急に渦巻いた不安に駆り立てられた。
ふいに甲板の方が騒がしいのに気がついた。
何かあったのだろうか?甲板へと続く扉を手にかけて、嫌な予感がした。焦る気持ちを抑え、思ったより思い扉を開く。
甲板は初めて降り立ったときと同様、広くて風がの髪を弄んだ。
鬱陶しげに暴れる髪を押さえつけ、視線をそのまま甲板の奥の方へ向け、そこで起こっている惨事に目を見張った。
そこに当たり前のように立っているのは先程のいけ好かない男とコルトン。
それはまあ頷ける。だがが目を見張った原因はその横であちこちに傷を負いながら膝を着く人物。
こちら側からは背中しか見えない為、表情までは分からないが、肩で息をしている。
その後ろ姿は見覚えがあった。というより今探していた仲間のものに他ならない。
それに対する男達はというと、少しも息を切らした様子もなく、涼しい顔をしている。
付け加えるなら男は相変わらず冷たい表情で、達を見下ろしていた。この場で何が起きたのか容易に想像がつく。
だけど、何故。
「トロイ様、如何致しましょう。」
コルトンが隣にいる男に声をかける。
あの男はトロイと言うのか。
その瞬間に、視線を上げた男――トロイと目が合う。
ぎくり、と体を強ばらせるが、今度は先ほどのようになるわけにはいかない。
手のひらに爪が食い込むくらい強く拳を握る。
その拍子に押さえていた髪が再び暴れ出し、トロイとの視界を遮った。

「みんなっ!!」

石のように堅くなった足を叱咤して、彼らに駆け寄る。
コルトンの驚いたような顔を視界の端に捉えたがそれどころじゃない。
っ?!!」
驚いたような、悔しいような表情を浮かべる達の元に辿りつき、傷の具合を確かめる。
所々出血をしていて痛々しいが、致命傷になるような深い傷はないようだ。
「良かった…」
「良かったじゃない!何処に行って……来て!」
「え?!」
に叱咤されるかと思い、目を瞑った瞬間、突然手を引かれる。
勢い良く引かれて、為すがままに着いていく。事情は良く飲み込めていないが、どうやら逃げるらしい。
そのまま逃げる達はトロイの横を通り抜ける。
何故か彼は逃げる達に手出しをしようとしない。もそのまま彼の横を通り抜けようとした――

「え?」

思わず立ち止まる。
急に立ち止まったに、手を引いていたも驚いたように振り返った。

!!」
「あ!うん、ごめん!!」
の声で我に返ってまた走り出した。
何故だか絶対に振り返ってはいけない気がした。









小舟に乗り込むと皆、ほっとしたように息をついた。
あの様子だと追っ手が来る心配はないかもしれないが油断はできない。皆でオールを手にする。
段々と離れていく商船が気になって振り返ると、さっきまでいた甲板に人の影が見えた。
根拠はないが、それがトロイだ、と思い、振り返った事を後悔する。
「忘れるな」
彼の横を通り抜ける時、確かにそう言われた。
潮風に乗って届けられた言葉はあまりにも小さくて、重くて、執拗にの心を縛り付ける。
一度囚われてしまうと、簡単に離してくれそうにない、まるで呪いのように。

「お前は何者だ?」

自分自身に問いかける。

甲板に立っているトロイと目が合った気がした。

それに何故だろう、耳鳴りが止まない。
彼と出会った時

懐かしいと感じたのは気のせい?


横にいたチープーに声をかけられるまで、ずっと、その目から反らせないでいた。




                                                           2006.7.15
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